7月28日の「通」は偶然見ていた。途中からだけど。話の流れはテレビのスキマ「阿久悠をも唸らせた半田健人の歌謡曲鑑賞術」に詳しいのだけど、この中で半田氏が語る「歌謡曲とJ-POPの違い」と言うところ(つまり、この話のキモとなる部分)に関してはちょっと疑問が残っていた。
孫引きになるが、実際こんな感じでしゃべっていたのでそのまま引用すると、
その特徴を「具体化しつつも決めすぎてない」ことと看破する。
J−POPはこうなりたい(あの人に想いを届けたい、とか)という目的がある。それに向かっていろいろなアーティストが、その目的に向かったメッセージの歌詞を書いている場合が多い。
歌謡曲は真逆。
確固たる目的というのはなく、出発点がまずひとつ。で、その曲の結末を今度はリスナーに託す。
阿久悠の作詞は特定しすぎないことにある、という。それはそれで確かにいろいろと想像の余地を残すという利点はある、確かにそうだ。
ただ、J-POPをそれと対比させるのには反例がたくさんありすぎる。
なにせ、「ラブ・ストーリーは突然に」(小田和正)がヒットしたとき、「夜空ノムコウ」(SMAP,もしくはスガシカオ)がヒットしたとき、これらの曲は「歌詞をぼかして、特定させないことで共感を産んだ」として評論、評価されたからだ。
評論家によってはこれら「漠然とした内容」の歌を「これまでの歌謡曲に比べて雰囲気だけを楽しむように作っている」みたいな感じで言っている人もいた。
- 「あの日あの時あの場所」って何時何分地球が何回まわったとき?
- 「あのころの未来に僕らは」って、「僕ら」って友達なの?恋人なの?*1
どちらの曲も、具体的なことを言わずに具体的な内容をリスナーに託していると言うことでは、「ジョニーへの伝言」以上のものがあると思う、と思うし、時代が違うとは言え両方ともミリオンセラーだ*2。
そういうわけで、例の発言を効いた直後には、半田健人がどの辺の曲を念頭にJ-POPの特徴をつかんだのかは少々問いつめてみたい気分になったのだ。