映像表現の「作品」性と「商品」性を制作コスト低下を前提として調和させるには なんだけどさ。
コンピュータの値段が格段に安くなったことによって、COBOLプログラマーの仕事が無くなった。COBOLプログラマーにとっては、それは働く権利を奪われたと言ってもいいような暴挙だったんだけど、彼らはそれを受け入れて、転職した。転職した先でも、別の言語を端末に打ち込む仕事をしているから、世間からは転職したことや職種が消滅したことは認識されてなかったけど、実態としては、大半のCOBOLプログラマーは強制的に転職させられたのだ。
コンピュータの値段を安くした人は、別にCOBOLプログラマーが無駄だから、クビを切ることによってコストを削減できるようにしたわけじゃない。
FreeBSDを作る際には、もともとあったAT&Tのコードを全てなくすことから作業が始まってるし、Linuxが今の形になるためにGNUのソフトウェア群を利用したことは、コンピュータの歴史書を見れば明らかな話。
早い話が、そのチープ革命とやらが成功するにあたって、アイデア以外の剽窃は結果的になかった、と胸を張って言える状態なわけだ。だからこそCOBOLの人は職がなくなっても転職できる。
これを、いわゆる映像作品にあてはめるなら。
製作費用が安くなって、配信費用が安くなって、Web2.0とBuzz Marketingを活用すればプロモーション費用も安くなった、今まで商品にするためにいろいろ中抜きするようなコストなんか不要なんだ、というのだから、そういう既存の商品化コストをかけた作品を使わないで、CC宣言した作品だけでやったってかまわない話なわけだ。
そのコスト削減論が正しいなら、その流れでも、既存の商品化関係者はそれこそCOBOLプログラマーのように徐々に仕事を失っていくだろう。それも、せいぜいぶつぶつ愚痴を言いつつ、Buzz Marketingに自身の糊口を凌ぐ道を探して転職するくらいのコストで。
それにしても、なんで商品を剽窃することを「シフトチェンジ」とか言って正当化したがるんだろうね?本当にそれが正しいなら、その変化はかつて起こったように、いわゆる商品に頼らなくてもいけるはずだ。
まあ、もともとシフトチェンジのある権力論にあるとおり、
しかし、YouTubeの無い世界から、一切の違法行為無しに、「足し算の未来」に辿りつくことはできない。
YouTube が最初からグレーなことをしないで、つまり、アップロードされた動画を事前にチェックして公開していたら、YouTubeにはあれほどのアクセスは集まらず、従ってワーナーとの提携交渉がうまく行ったとは思えない。そもそも、「提携しないともっとひどいことになるよ」という脅し無しには、交渉のテーブルにつくことさえ不可能だっただろう。
シフトチェンジ、っていうのは「摘発できない違法行為を続けることによる脅し」のやわらかい言い換えのようだから、しかたがないのかな。