映画「鈴木先生」で町山智浩が比べたかったもの、もしくは「原作通り」について。

全国ロードショーと言いながら、東京の封切り時には東北では上映館が1館もなかった映画「鈴木先生」がようやっとこの地にもやってきた。まあそれでも扱いはひどくて、上映は午前に1回、レイトショーが公開初日と週末(金曜日)の2回だけ。来週は午後3時からになって2週間で終了、というかなりの冷遇のされ方だけど、まあドラマそのものが地上波では1年以上遅れて放送、ということを考えれば映画館で見られるだけマシなのだろうと思う。

ことのはじまり

ところで、この映画に関して、町山智浩氏が漫画「鈴木先生」を連載していた「漫画アクション」誌に載せたコラムを、自身のブログの2月19日付けエントリとして掲載していた。

ところが映画『鈴木先生』を観て驚いた。
 シナリオは完璧だった。わずか100分前後に、複雑で緻密な原作の要素を余さず収めている。
 でも、撮り方(カメラ割り)がまったくダメ。
 どうして原作漫画のコマ割りを尊重したカメラ割りにしないのだろう。
 鈴木先生、小川さん、足子先生、愛くん以外にクロースアップが与えられていない。
 登場人物たちの顔がまるで見えないのだ。

必ず映画『鈴木先生』を鑑賞した後にお読みください

これに、けっこうな反響があったようで、ブクマコメントもいろいろある。

反論ぽいエントリもあがっていた。

 が、読んでみたところ、少なくとも僕には???が並ぶ内容でした。確かにこの文章だけ読むと、もしここに書かれている映画や原作漫画についての認識に間違いがないなら、さすがの批評だといえるような、びしっと決まった評論になってるんですが、そもそもその認識に疑問をいただかざるを得ないんですね。

町山智浩さんの「映画 鈴木先生」評について

「必ず映画『鈴木先生』を鑑賞した後にお読みください」と言われたにも関わらず、まあ鑑賞する前に両エントリを読んでしまったわけだが、そこは地方の事情も鑑みて御容赦頂きたい。

鑑賞して……

引用はこのくらいにしておきたいので、エントリ未見の方は、全文をリンクを辿って読んでいただきたいのだけれど、見てきた個人としては、映画の印象はこの反論エントリのほうに完全に同意できるものだった。

重要なシーンで表情が見られない、というシーンはそれほどない。
確かに平良のお礼シーンは暗めだし、あごすら切れるんじゃないかというくらいのクローズアップは確かに存在しなかった。が、普通にアップ、ショルダーショット、バストショットでのワンショットは普通に存在したし、ウエストショットだった校長先生の顔だって、どのモニタで見たら米粒になるのか、9インチのポータブルモニタで試写してるんじゃないかしらと思えたほどだ。
もしDVD,ブルーレイ化しても、ご家庭のデファクトスタンダード32インチ画面なら普通以上に表情は判る大きさだ。

町山氏の認識はどこから来たのだろうか

ただ、映画評論家としての町山氏にも普段から心酔している自分としては、なぜそのような認識になったのか、という疑問も新たに生まれた。

確かに、漫画に比べたらクローズアップは少ないだろう、でもそれがどこまで問題になるのだろうか?

そして、あらためて町山氏の批評エントリを読み返したところ、とあることに気がついた。

町山氏は、漫画『鈴木先生』だけを比較対象にしていて、かつドラマ『鈴木先生』を参照していない。

批評には、ドラマに関する言及が全くない。また、町山氏は漫画「鈴木先生」の12巻(外典)の解説を書いているのだが、こちらは2012年12月の発行、つまり、ドラマ「鈴木先生」の放送が既に終わり、さらにDVD-BOXも発売されて1年以上経っている時期なのにも関わらず、ドラマに関する言及は全くないのだ。*1

認識違い、というか評価違いは、どうもこの点を踏まえなければいけないような気がする。

「ドラマの続き」としての映画

映画「鈴木先生」は、過去最低レベル*2の視聴率を記録したドラマ「鈴木先生」の続きとして制作された映画だ。

映画のために主題歌は準備されてはいるが、ドラマ版のオープニング主題歌、エンディングの歌はそのまま採用され、オープニングは映画のために若干登場人物の名前が分かりやすくはなっているものの*3、イメージとしてはほぼ同じ。さらにタイトルには「LESSON 11」(ドラマは全10回だった)と、ドラマの続きであることが強調されている。もちろん、配役も脇役までドラマに出ていた俳優と同じ。

つまり、これは一部の映画好きが最も嫌う「テレビドラマの延長上にある映画」そのものなのだ。

町山氏が「映画でテレビドラマをやること」について批判的な発言をしたかについて確実なところは覚えていない。個人的に「そういうことに批判的そうな映画クラスタ」に入れているだけなので、そんなことがないのならば陳謝するしかないののだが、もしかしたら、もしかしたら。

復帰後の足子先生が鈴木先生を見えないものとしたように、ドラマ「鈴木先生」を意図的に無視したのではないか?

そう邪推してしまうのだ。

「原作漫画の映像化」としてのドラマ

しかし、映画「鈴木先生」の内容を語るためには、ドラマ「鈴木先生」はどうしても外せない。なんといっても、町山氏の批判する「俳優のクローズアップがない」というのは、ドラマ「鈴木先生」から続く話であるからだ。

そもそも、ドラマ「鈴木先生」は、漫画「鈴木先生」を完全に忠実に映像化したものではない。エピソードの出現順はいじられ、原作にないクラス分けシーンは増え、事件に絡んでくる配役も(実際にその配役がいるにも関わらず)、主に足子先生が絡むように変更されていたりする。そうなるとドラマ内で起こる事件の流れも変わってくる、主に足子先生が絡む形で。

臼田あさ美が演じるところの鈴木先生の恋人、秦麻美の能力も、ドラマ化にあたって「時々ある体調不良」的な描写から「鈴木先生の心情に伴う反応」として、明確に提示された。

ただ、他クラスの生徒の話を鈴木先生が担任するクラスの話に変更することも含め、どの変更も「鈴木先生に近接するいろいろな人物との関わりをそれぞれのエピソードで見る」から「鈴木先生と関連する人物の関係の変化をエピソードを連ねて見る」という方向で行われているため、違和感は少ない。

違和感が少ないだけでなく、登場人物が整理され、ストーリーとしても漫画よりよくまとまったところがある。

つまり「ドラマ化にあたってのエピソードの整理」が、ドラマ「鈴木先生」では大成功しているのだ。

映画「鈴木先生」が、コミック残り4巻分を(ドラマ3話分程度の長さであるところの)2時間程度で全て消化する、という話を自分が聞いたとき、若干不安もあったが期待するところも大きかったのは、ドラマでのアレンジ成功を見ていたところが大きい。

忠実な「映画化」とそうでない「映画化」と

漫画「鈴木先生」は、コマの大きさが全般的に小さい。

コマごとにダイナミックな書かれ方をしていることが多いので気がつかないが、見開きはおろか、ページ1ページをまるまる大ゴマ一コマで使うことも、扉絵を除けばほとんどない。クラス全体や校舎全体など大きい舞台を描くときでもせいぜいページ半分といった感じだ。このコマの割り方であれば、長台詞で顔を描くときにはクローズアップになる。

いっぽう、複数の人物が描かれている中で、そのうちの数人が会話をする、といった場面も多く描かれているが、その時会話していないキャラクターについても当然のようにいろいろな表情が表れている。町山氏が映画評、漫画評どちらでも使った引用

「どんな時でも、自分の周りに存在している人間を―かきわりの絵のように無視してはいけない」

が、コマの絵として実際に描かれている場面でもあるわけだ。

つまり、表情のクローズアップも漫画「鈴木先生」の醍醐味だが、引いた絵も漫画「鈴木先生」の大事な要素なのだ。

映像化にあたってストーリーの細部に変更がかかっているドラマ「鈴木先生」の寄りと引きのバランスだが、個人的にはバストショットまでを寄りとすれば、それほど原作との乖離はないと考えているし、ドラマ「鈴木先生」に関してそういう評があった覚えもない。

顔のクローズアップは極端な構図だから、使えばそれなりの意味が生まれるわけで、おそらくその点で町山氏は漫画「鈴木先生」を評価したのだとは思うが、そこまでは求められていなかったような気がする。

もちろん、漫画からの映像化にあたって、どこまでを忠実にするべきかという点には注意が必要だ。

ドラマ「のだめカンタービレ」「もやしもん」などでは、実写部分にCGや特撮などで漫画的な表現を残しているし、アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」では、独特の効果音を音ではなく文字を残して表現している。そういう忠実さが望まれる場面もある。

ただ、漫画「鈴木先生」のドラマ化にあたって重要視されたのは、鈴木先生と2-Aの生徒、そして主な先生方の考え方であって、クローズアップの表現ではなかったと言うことだと思うのだ。

ところで

町山氏の批判するところで納得がいく部分を挙げるとすると「生徒会選挙の立ち会い演説会」の場面だ。あの部分で演説を聞いている生徒、立ち上がった生徒に寄れなかったのは確かに残念だったと思う。

ただ、あのシーンはラストの結果に繋がる部分でもあって、あそこで観客に結論を予感させるわけにはいかない。その点ではヤジですら邪魔かもしれない。

さらに言えば、あの部分で全校生徒個々に触れられないのは漫画「鈴木先生」で試みられていた「2-Aの変革から学年、学校全体に広がる変革」をあきらめ、全てを2-A内部での出来事に改変した脚本の副作用だとも思う。

脚本の改変自体は尺の関係もあって成功だったと思うが、もちろん切り捨てられるものはある。2-A以外の生徒を女子バレー部員などごくわずかの例外を除いて描いてこなければ、漫画「鈴木先生」ではじっくり描かれていた投票そのもののバリエーションも描けない。

自分の考えではあの前提であれ以上の描き方は思いつかないが、残念なことは残念だ。

余談

日記の引用部分だが。

愛君というのは今回映画のなかで「勝野ユウジ」という重要な役どころを演じた風間俊介のコトだろうと思うのだが、前3人までキチンと役名を出しているのに、そこでNHK連続ドラマの役名に切り替えるのはいかがなものかと思った。まあ自分も調べ直すまで「勝野ユウジ」はおろか「風間俊介」も思い出せなかったのだから人のことは言えないが。

*1:まあ、漫画の解説に、媒体の違うドラマの話を書く必然性は薄いが

*2:ただ、テレビ東京に限ってもワーストワンではないらしい

*3:これはドラマ版でも「鈴木裁判」の回に採用されている