タイカレーには本当に地域差がないのか

タイ料理の代表がトムヤムクンだというのが日本人の常識だとして、タイの主食がタイカレーというのもたぶんそれが本当のことなのかは別にして大方の日本人には常識なのだろう。わからないのは、どんな食べ物がタイカレーなのか、ということだ。

そう、北インド南インドでは、カレーに使うスパイスや具材などが大きく異なるのです。これはインドカレーだけの特徴で、タイやスリランカなどの他国のカレーが、地域によって違うという話は聞きません。

北インドカレーと南インドカレーが全く違う理由を調べてみたらインドに行きたくなった

引用先の人はインドのコスプレをしてカレーを作るイベントをブログにしたい人らしいので、たぶんタイやスリランカのことは興味の範囲外なのだろう。興味の範囲外なら地域によってカレーが異なる話も聞いたことがないのもしょうがない*1

難しい、カレーの定義

カレーについて書くのは難しい。それは、「カレーの定義」なるものが微妙だからだ。「世界のカレー」みたいな本には、冒頭の方に必ずそう書いてある。

とは言うものの、カレーとは何なのだろう?「カレー」という言葉の定義は曖昧で、何かと議論の種になる。

「カレーの歴史」コリン・テイラーセン著、竹田円訳 原書房

実際、それはそのとおりだ。みんな「なんとなくカレーと言ったらこんな感じ」とは言えても、正確には「こういう特徴を持つものがカレー」とは言えないのだ。

例えばどうだろう「基本的に辛くて、それなりにとろみがついていて、主にご飯にかけて食べるものがカレー」という定義を仮に作ってみたとする。そこそこなんでも当てはまるように「それなり」とか「主に」とか逃げのワードを入れたおかげで、それなりに使えそうな定義ではある。
ところが、この定義なら麻婆豆腐丼はカレーの仲間になってしまう。おそらくだいたいの日本人にとって麻婆豆腐丼はカレーの仲間とは言えないだろう。

では少し前に出した「世界のカレー」みたいな本には、ではカレーはどのように定義されているか。「『複数のスパイスで味付けされた汁物』か『カレー粉で味付けされた料理』の総称」あたりが複数の本で挙げられている定義だ。本当にざっくりした定義だが、この定義にはさらにツッコミが必要になる。

さらに面倒くさい、スパイスの定義

必要なツッコミというのは、「スパイス」についてのことだ。

スパイスとは何かというと、香味のある植物(ハーブ)を乾燥させたもの、らしい。かなり大雑把な定義なのだが、仮にこれが前出のカレー定義内での「スパイス」と同義なら、タイカレーのほとんどはカレーではなくなってしまう。タイカレーのほとんどは唐辛子をはじめタイカレーペーストを作る際に、生の素材しか使わないからだ。

イカレーはカレーの一種なのか、そうでないのか。カレーを「インド発祥の汁物」というかなり微妙な定義で考えた場合でも、タイカレーはカレーとは別のもの、とは言えない。

ちょうど日本を含めた東アジアが中国の影響を受けて、それぞれの独自の文化を育んだように、南アジア、東南アジアはインド文明の強い影響を受けている。それは間違いない。東南アジア史の先駆者といっていい歴史学者「ジョルジュ・セデスなど「インド化した国々」というような言い方をしている。カレーもそのインド化の一部と見られなくもない。実際、紀元前から、インド人は広く東南アジアを訪れている。

「カレーの正体」森枝卓士「アジア・カレー大全」旅行人編集部・編

と、あるように、インド人は紀元前からタイの各地には出入りしていて、それを考えるとタイカレーをインド人の食事から独立したものとはなかなか言いづらいからだ。

イカレーがカレーの仲間であるということを前提にした場合、カレーの定義で言う「スパイス」には、乾燥させる前のハーブも含めなくてはいけない。
「複数のスパイス(またはハーブ)で味付けされた汁物」というのが、タイにおけるカレーの基本的な定義になる。

乾燥させた素材を使わないことによる、カレーの地域多様性

今は輸送技術も発展したのでそれほどでもないが、料理に生のものを使う、というのは、それだけでその料理の広がりかたを狭くする。日本のタイ料理店でなかなかきちんとしたガパオライスが食べられないのは、生のガパオが手に入りにくいことがその一端であることは否めないし、いまだに日本の旅館のごちそうのほぼ全てに刺し身が入っているのも「手に入りにくいものをきちんと手に入れた」印でもある。タイカレー、タイ語でゲーン(แกง)と言われるものの地域多様性はそこに生まれる。

日本でタイカレーと言えばココナッツミルクの風味を避けては通れないものと思うのだけど、ココナッツミルクはココヤシの生えているところでしか採れない。タイといえば暑い国、という印象があるかもしれないが、北部や東北部には自生していないのでこの辺で昔から作られるゲーンにはココナッツミルクが入らない。具もそうだ。シーフードレストランと言いながらタイで食べられるエビの多くは川エビなのだけど、その川エビも取れるところはそれなりに限られているので、海に面していないところでは具は必然的に川魚になる。それだけでも「具材が大きく異ならない」とは言えないことがよくわかるだろう。

ところで、ゲーンは「タイのカレー」なのか。

ここで実は、ゲーンをタイカレーとそのまま訳してしまっていいのか、疑義があることも言わなくてはアンフェアになる。

ここで、タイのケーンという料理について少し解説しておこう。ケーンは、日本では「カレー」と紹介されることが多いが、あやまりである。先に紹介した「ライギョの汁」のタイ語名をわざと書かなかったが、ケーン・プラーチョンという。ああいう料理もケーンなのである。ケーンとは、ごく一部の例を除いて、大部分は「ハーブやスパイスを使った辛い汁」であり、ウルチ米を食べる地域ではご飯にかけて食べる。

「東南アジアのカレー、のようなもの」前川健一「アジア・カレー大全」旅行人編集部・編

この本は2007年に初版発行されたもの、およそ10年前に書かれたものである。今だと「汁ものでもご飯にかけるならカレーの一種では」と思わなくもないが、そこは主観の相違かもしれない。まあそこを全て除外しても、まだまだげゲーンのレパートリーは多い。ただし、トロミをつけるための方法がだいたいココナツミルク一択となる。ココナツミルクの風味というのは日本人にとってはかなり大きい。興味がない人にとっては「ココナツミルクが入っている辛い汁もの」以外の区別ができないのかもしれないという好意的な言い方も出来なくない。まあ、そういう人にカレーブロガーとか名乗ってほしくないけどね。

ちなみに、インドカレーの地域性について

冒頭で上げたブログの人は、インドカレーの地域性についてインド人に聞きに行っているが、個人的には先に本でも読んでおけばいいのに、と思わなくもない。今回引用した本を読むと、一人のインド人にだけ地域性を訊ねることの危険性がとてもよくわかる。はてなブックマークでも指摘されていたが、インド料理の地域性は大きく分けても北と南だけでは大雑把すぎることもわかるはずだ。私はインドには詳しくないのでここでは書かないけれどね。

*1:しょうがない、と書いたが内心ではかなり怒っている。大げさに怒らないのは大して調べもせずに「だけの特徴」とか書ける人はだいたい怒っても仕方がない程度の人だからだ